Travel Diary/6年ぶりのタイランド 2004年 |
![]() Pop Guesthouse/Trat/Thailand 2004 |
2004年に6年振りにタイを訪れました。タイどころか海外そのものが6年振りでした。連休を組み合わせた僅か一週間の旅程でしたが、ドンムアン空港から出た途端に包まれたムワッとした温い空気と匂いは、忘れていた旅の感触そのものでした。 バンコクに着いた翌朝の8時頃のバスで、トラートとという街に向かいました。今回の旅の目的地は、これも6年振りとなるコチャンいう島でした。何しろ一週間しか時間がありません。こんなにてきぱきと動いた旅は初めてでした。 ![]() Trat/Thailand 2004 トラートという新たな沈没地? トラートという街は6年前にも泊まったことがある。その時は香港から来た女性二人と一緒だった。彼女達とはタイ南部のマレーシアとの国境の近くにあった、ちょっとした秘境といった感じのコリペという島で知り合った。そしてバンコクに戻るという行き先が同じだったこともあり、三人でタイ南部の主要都市といえるハジャイという街から夜行列車に乗った。その車中で僕がこのままコチャンに行くと言うと、彼女達二人が何やら相談し始め、自分達も同行したいと言ってきた。そして明け方にバンコクに着くや否やタクシーでエカマイというバスターミナルに行き、三人とも疲れきった状態のままこの街に辿り着いた。 あの時は一泊しただけでコチャンに行ったので僅かな事しか憶えてないが、泊まったゲストハウスの婦人が、「今ではみーんなカオサンから直接島に行ってしまうので、宿泊客がめっきり減ったのよ」といった愚痴めいた話を聞いた覚えがある。これは今でも大して変わらないと思うが、コチャンに行く最も手っ取り早い手段は、カオサンの旅行代理店などで募集されているツアーワゴンに参加することだった。 しかし時代が変わったのか元からそうだったのかは知らないが、6年振りに来たトラートで僕が泊まった、「Pop Guest House」の周りは、小カオサンといった感じだった。木造家屋が立ち並ぶ狭い通りには、レストランを兼ねたゲストハウスは勿論のこと、「Massage」や「E mail」といった看板が犇き、多くの白人達が闊歩していた。カオサンに飽き足らずチェンマイに飽き足らず島にも飽き足らず、遂にここまで来たかといった感じだったが、なぜトラートなのかは分からなかった。コチャンやカンボジアに行く途中に寄っただけかもしれないが、昼間からビールを挟んで談笑する彼らの様は、もう何ヶ月も滞在しているようにも見えた。 とりたてて夜の歓楽があるわけでもなく、これといった見所があるわけでもないトラートには、泥色した運河に面した木造家屋が立ち並ぶ、静かで心地よい通りがあるだけだった。だから居ついたのか? 単純に好みや価値観の違いと言ってしまえば全くその通りだが、この種の場所を発見する白人の嗅覚には、好き嫌いは別として特殊な才能を感じることがある。 ![]() Pop Guest House/Trat/Thailand 2004 まさか地球温暖化? コチャンに着き、「Hat Kaibae」というビーチにあったバンガローに居を定めた。6年前に泊まったのもこのビーチだった。何しろ一週間しか時間はない。荷を降ろすや真っ先に海に飛び込んだ。少しでも日焼けし、職場の奴らに見せつけてやるかといった感じだった。まるで旅に来た証拠を残すかのように力一杯泳いだ後に、浜に尻を降ろし冷静になって辺りを見回した。季節なのか時間なのかは分からないが、寛ぐ場所の確保に戸惑うほどにビーチは狭かった。というより砂地の歩道すれすれまで波が押し寄せていた。あの時もこうだったけ・・・? 記憶を頼りに6年前に泊まった、「Porn's」という宿に行ってみた。カイバエビーチの南端にあり、あの頃バックパッカーの間では一番賑わっていた宿だと思う。この宿のメインは履物を脱いで上がる座敷のような食事処だった。それがそのまま、「旅人達の語り合い」の場となっていた。 宿はあるにはあったが、無残という言葉が見事に当てはまる感じだった。誰も泊まっていないように見えた。それ以前に誰もおらず、営業しているのかどうかも分からなかった。観光地ではありがちなこととはいえ、あれほど賑わっていた宿がと不思議な感覚に包まれた。あの頃は一日が始まると藁葺きの部屋を出て、当たり前のように座敷に向かった。そしてテーブルというより飯台を囲んで、香港人の女性達が持参していたゲームを毎日楽しんだ。彼女達から香港と広州は言葉が違うと言われ驚いた。同じ広東語なのだから嘘だろうと言うと、「東京と大阪の言葉は違うでしょう」と言われ、返事に詰まった記憶がある。といった思い出深い宿が、またひとつ無くなったのだろうか※。 「Porn's」の傍の浜辺にあった木に吊るされたブランコはそのまま残っていた。あの頃は毎日ここに来て香港人達と寛ぎ、無駄話をしたり写真を撮ったりした場所は無事だったのでホッとした。しかしその下に波が来ていたので驚いた。思わず地球温暖化というフレーズが過ぎったが、それは分からない。どちらにしても浜が狭くなったと感じていたのは気のせいではなかった。 ![]() Hat Kaibae/Ko Chang/Thailand 2004 タイの定番バーライフ カイバエビーチを背に内陸に向かって坂を上がったところに、夥しい数のバーが犇く場所があった。どれも店舗を構えているという感じではなく、野天にカウンターがあるだけの簡素なものだった。バンコクはもとよりパタヤやプーケットでは見慣れた光景だが、予想を裏切らずコチャンでもそうなっていたので、あらためてタイという国の旅行者に対する均一性を痛感した。素朴な村に旅行者が押し寄せるとこうなるという典型のような感じもした。とはいえ酒好きの僕にとっては有り難く、バンガローに付属されたレストランで夕食をとった後は、短い旅の時間をフルに使うといった感じで毎晩ここに出陣した。何しろ島に滞在出来る時間は三日しかなかった。 他の多くの旅行者もそうだと思うが、僕にとってもバーに行く醍醐味は、カウンターに陣取る女性達と話すこと以外になかった。とりわけタイのバーで何より気楽なのは、英語のレベルが似たり寄ったりということだった。吉野家にあるような丸椅子に着き、瓶が発泡スチロールに包まれたビアレックを口にしながら、生産性の欠片もない会話を愉しむのもタイを味わえる時間だった。旅とは無縁だった七年近い年月を経て、またこの時間が訪れたかと思うと、この瞬間だけでも日本を出た甲斐があったと思った。 酔いが廻るなか五目並べが始まった。正確には五ではなかったかもしれないが、その都度勝ちを決める数を指定するゲームで、タイのバーの定番といっていい。僕がこのゲームに初めて接したのは、1986年の初めてのタイでパタヤに行った時だった。あの時も無限に立ち並ぶカウンターが露出したバーに圧倒されながら、呼び込む声に誘われて席に着いたものだった。二十年近く経った今でも、このゲームを通じてコミュニケーションを図るバーのありようは全く変わらないものだった。 翌日はバイクを借り、バーの女性達に冷やかされるなか、うちの一人の女性を後ろに乗せて島内ツーリングに出発した。海の青と木々の緑に囲まれた綺麗に舗装された道は快適で、背中から指示を出す彼女に言われるままに、国立公園のような場所に着いた。そこに入るための入場料が存在すること自体は驚かなかったが、僕と彼女では料金が違っていた。確かバンコクの王宮などでは外国人料金があった記憶はあったが、不平はなかったものの、こんなローカルな場所にも及んでいるのかという気がした。これも外国人に依るべき部分が少なくない国の観光産業にありがちな、自然な流れの一つかと思った。 ここには大きな滝があり、どうやらこれがこの公園の目玉だった。早速二人で滝の傍に行き、カメラを受け渡しながら交替で写真を撮り合った。初めて来たとは思えなかったが、こちらが戸惑うほどに彼女の喜びようは尋常ではなかった。少し意外な感じがしたが、イサーン(タイ東北部)の家族と離れて不馴れなバーガールを勤めながら暮らす彼女にとって、これも束の間の息抜きなのかなと思った。 滝の傍の少し離れた所に、一組の日本人カップルがいるのが目についた。この場所はコチャンの名所のひとつだと思ったので別に不思議ではなかったが、彼らが何か囁きあってるのが耳に入った。奥さん(もしくは彼女)が旦那(もしくは彼氏)に、「写真撮ってあげたら・・・?」と言ってるのが聴き取れた。 やがて男性の方が僕に近づき、「よかったらシャッター押しましょうか・・・」といった感じで声をかけてきた。やっぱり日本人だとばれてたのかと思いながらも好意を受け取り、滝を背に二人並んで収まった(「薹が立った日本人男に遅れてやって来た青春」を地で行くような仕上がりとなりました。旦那に進言してくれた奥さんに感謝です)。 ![]() Hat Kaibae/Ko Chang/Thailand 2004 形が変わったアドレス交換 コチャン最後の夜も当たり前のようにバーに行き、既に馴染みとなった女性がいるものの、他の女性達も交えて無駄話という旅の最高の時間を過ごした。その場には各々タイ女性を伴った二人のドイツ人の男性がいた。おそらくはパッポンかナナプラザ辺りで女性を調達したのだろうと思ったが、正確なところは分からない。そのうちの一人のタイ女性が愛想が良く、ドイツ人二人組が唖然とした感じで見守る中、久しぶりに使う怪しいタイ語で会話を弾ませた。 そのままドイツ人の彼らとも雑談を交わしていると、突然ドイツ人の一人が隣に座っていた相方の頭の上から、瓶に入ったビールを笑いながら掛けた。引っ掛けられた女性は怒り心頭に達し男性に掴み掛かり、次いで怒りを背中に現したまま何処かに行ってしまった。男は薄笑いを浮かべるだけだった。 カウンターにいた女性達は、「あーあ」といった呆れ返った表情で見守るだけだった。僕にしても、「コイツぶん殴ってやろうか」というのは全くの大嘘で、「アンタええ死に方しませんよ」と呆けたように思うだけだった。この報いは何れ彼自身が受ける。ことによるとこの「事件」をきっかけに、二人の中が深まるかもしれない。どちらにしてもこちらの問題ではなかった。天地が引っくり返っても同国の異性に出来ない行為に及んだ彼だが、たとえ一時的にせよ他者を軽く扱えるのも、彼のアジア旅の醍醐味かもしれなかった。 やがて馴染みの彼女がメールアドレスが書かれた紙片を差し出し、「あなたのも教えて」といった感じで、白紙の紙切れを差し出した。あっと思ったが、驚くことのない自然のことだった。かって旅先で知り合った人との関係を保つ手段は、単純に手で書く住所交換だった。あの時のパタヤもそうだった。あの時もサウスパタヤのバーの女にせがまれ書いたが、自分の住所を英語で書いたのは、その数日前に入国カードに記入して以来二回目だった。そして帰国後も、しばらく手紙のやり取りをした記憶がある(ありがちのパターンですね、80年代は)。 あれから二昔経ち、アドレス交換の形が完全に変わったわけだ。パソコンを手に入れて半年くらいだったが、生身の人間と直にメールアドレスを交換したのは初めてだった。 ![]() Hat Kaibae/Ko Chang/Thailand 2004 ※ 実際に廃業していた訳ではありません。おそらく僕が行った時は、たまたま閑散としていたのだと思います。「Porns Bungalows」は現在(2011年9月)も健在です。ウェブサイトで確認できるので、興味のある方はどうぞ/http://www.pornsbungalows-kohchang.com/index.htm |
Travel Diary − 中国遊記 2005年
Lovely Life or Hell