Short Stories

 世界でもっとも人種偏見のない島 イエメン/ソコトラ島 1992年

 1990年頃の話。一年半の旅が終わりに近づいたその日、僕はバンコクのカオサン通りを歩いていた。通りには衣料品をはじめとして装身具や音楽テープなどの様々な露店が、切れ目なく続いていた。その中に古本を並べてある店があった。ほとんどが洋書で、場所柄か旅行ガイドブックの類も充実していた。このカオサン通りは、世界中から経済的な旅を目指す旅行者が集まる場所として知られていた。

 その古本の中で、「Yemen」という文字が目に付いた。国の名前ということくらいは知っていたが、この国を旅行するという発想は僕にはなかった。だが、本は明らかにガイドブックだった。手にとって見てみると、何ページかある写真を見る限り、僕が知っているアジアとは明らかに異質な世界だった。茶色い建物に白い縁取りがなされた窓など、何ていうかアラビアンナイトの世界だった。防空頭巾のようなものを頭に纏った子供達が可愛い。精悍な顔つきをした白い服の男達のお腹の辺りには、刀のようなものが差してあった。

 その後日本に帰り、次の旅を目指して猛烈に働いた。前回の旅がアジア中心だったので、次はアフリカと決めていた。しかしカオサンで見たイエメンの写真のことが、どうにも頭から離れない。地図を見るとイエメンのあるアラビア半島とアフリカ大陸との距離は、地続きと言っていいくらい近い。ならばいっそのこと組み合わせるか。

 1991年の10月、再び旅に出ることができた。まずネパールに行き、アフリカゆきに備えて十日ほどのトレッキングをした(アフリカ旅行はとかく体力が必要だと思っていた。実際はそうでもなかったが)。そしてインドに出て、デリーからマスカット、アブダビと乗り継ぎ、1日半くらいかかって、漸くイエメンの首都のサナアに着いた。12月に入っていた。

 サナアの街の雰囲気はイメージどおりだった。心配していた安宿もすぐ見つかり、はじめの一週間は、市内と周辺の村々を見て廻った。一週間後、知人(インドで出会った)と待ち合わせていたこともあり、僕は再びサナアに戻って来た。会えるかどうか少し心配したが無事に会うことができ、とりあえず再会を祝して二人で近くのレストランへ夕食をとりにいった(それにしても、彼も同じホテルに来るとは。やはり旅人同士の嗅覚は似ているといったところか)。


Baqim / Yemen 1991

 そのレストランでもうひとり別の日本人旅行者に出会った。彼は数週間前からイエメンに来ており、主に南イエメンを中心に回って来たとのことだった。

 ここでイエメンという国について少し説明しておく。今は知らないが、当時のイエメンは南と北との内戦が終結したばかりで、一応統一国家ではあるが、依然として南北間の風土や体制の違いを色濃く残していた。北はリエル、南はディナールといった通貨の違いなどは最たるもので(ただし両地域とも、どちらの通貨も使うことが出来ました)、他にも南には刀を差している人はいない(逆に北では、刀を差していない成人男性を見かけることが難しい)とか、顔を隠している女性ばかりではない(逆に北では、顔を隠していない成人女性を見かけることが相当難しい)など、彼は興味深い話をたくさんしてくれた。
 
 僕が持参していたガイドブックはその情報量の多さで有名だったが、イエメンに関しては取材しやすかったのか北の部分がほとんどで、南イエメンに関する記述は僅かしかなかった。僕自身も南を旅することは考えていなかったが、彼の話を聴いているうちに少しずつ関心が湧いて来た。

 その後しばらくは北イエメンを中心に見て廻り、年が明けて一月。信じられないくらい煩雑な査証延長手続きを終え、僕はサナアから南イエメンの首都ともいうべきアデンに向かうバスに乗った。


Sayun / Yemen 1992



 アデンに一泊し、翌日バスで十時間以上かけてムカンラという街に来た。ここはハドラマウトと呼ばれる地域の中心で、周辺には、わがロンリープラネット(持参していたガイドブックです)にも紹介されている、いくつかの見所があった。翌日ホテルのコーヒーショップでガイドブック片手にあれこれ考えていると、ひとりのドイツ人の男が話しかけて来た。年の頃は僕と同じだろうか。大きな銀縁メガネをかけていた。

「キミ、USドルを持ってるか」

 彼は挨拶もそこそこに、そう切り出した。 僕は咄嗟に「ない」と応えた。実はあるにはあるんだが、意味がよく分からなかったし、それ以前に相手の素性が分からない。一般に米ドルを欲しがる人達というのは、まず政治や経済が安定しているとはいえない途上国の人達が挙げられる。自国の通貨があまりあてにならないので、財産の一部として米ドルを所持しておくわけだ。今はそれほどでもないが、僕が旅した範囲では、かってのインドやミャンマー、カンボジアやベトナムがこれにあたる。旅行者が欲しがる場合もある。これは自分が所持するカードやトラベラーズチェックが使えない場合に備えて用意しておくというもの。よくガイドブックで、「少しは現金を持っていこう」などと書かれているのがこれにあたるが、普通は書いてある通り事前に用意するので、よほどの事情か長旅でもない限り、旅の途中で不足するようなことはないように思う。

 それとは別に、これも途上国にありがちなケースだが、国際線の航空券など一部の交通機関を利用する際に、外貨での支払いを求められることがあった。また観光名所への入場の際に同様のことが起こる場合があるが、いずれの場合も外国人のみに適用されることが多く、料金も現地の人達に比べ高い場合がほとんどだった。さて、彼の事情は。

「実はソコトラ島に行こうと思ってるんだけど、チケットがドルじゃなきゃ売ってくれないんだ。あと二十ドル足りないんだ。誰か持ってないかなあ」

 なるほど。そのパターンか。しかしソコトラ島?

 この島のことは、僕も一応知っていた。南イエメン領だが、地図の上ではアフリカの一部といった感じがする。絶海の孤島という言葉が見事に当てはまる島に見えた。しかし本当に行けるのか。ロンリープラネットにも紹介されていたが、その文末には、「実際に行ったことのある人を私は知らない」と書いてあったのだ(そもそも筆者は行ったことがあるのか)。

 僕がそのことを告げると、「だから行くんだよ」と彼は一言。そうですか。やっぱり白人は凄いな。歴史を創るということは、こういうことの積み重ねなのかなと思いつつ、僕も行くことにした。「あ、二十ドルならありますよ」


Socotra / Yemen 1992


 
 ようやく島が見えてきた。プロペラ機がぐんぐん高度を下げてゆく。曇りがちの天気が残念だが、砂浜の白と海の青さ綺麗に見えた。そして久しぶりに目にする緑だった。本土と違い、この島は緑で覆われているのだろうか。

 滑走路は砂地だった。着陸した途端、ものすごい砂煙が舞い上がった。空港ビルも何もない。ビーチをそのままエアポートにしたような感じだ。荷物を受け取り、さてどうするか。そこへかろうじて英語が話せる青年が来て、彼の助けで軽トラックの荷台に乗ることが出来た。

 海に沿った悪路を揺れながら進む。やがて奇妙な形をした樹というか植物が見えてきた。ああ、これがそうか。ロンリープラネットに書かれてあった 「strange trees」。 バオバブの一種だと思うが、何ていうか見た目が滑稽なのだ。コカコーラの瓶というかボーリングのピンというか。これを見ただけでも、僕はこの島に愛着が持てた。愛着を通り越して、尊敬といってもいい。折からの曇り空と調和し、やや不気味な感じもよかった。

 かなり走って、漸く村らしい所に着いた。ここが地図に記されていたハディブの町だろうか。青年がゲストハウスと呼ぶ場所へ案内された。無事ベッドを確保。シャワーもあるしトイレもあるし、僕たちにはこれで十分だ。案ずるより産むが易し。行けば何とかなるものだ。

 ハディブの町は人の気配がほとんどなく、曇っていたせいもあり、どこかうら寂しく感じられた。風が強いためか、石を積み重ねた造りの家が目立った。村に面した浜には、砂利が敷き詰められていた。泳ぐのには適していないかなと思ったが、水は綺麗で、珊瑚の残骸がたくさんあった。海とは反対の方向に、町を挟んで小高い山が迫っていた。緑の斜面では、放牧されている山羊の群れが曇り空の下で、思い思いに草を食んでいた。

 ここは僕のお気に入りの場所だった。毎日のように午後になるとここにやって来て、適当な岩に腰を降ろし、緑と山羊の風景を楽しんだ。何もしない。何も考えない。ただ風景を見つめているだけで、至福の時間を過ごすことが出来た。

 食事は村にある二軒の食堂のうちのどちらかでとった。主食は黄色いご飯かバターを塗ったロールパンで、おかずはマトンか焼いた魚だった。種類は少なかったが、どれも美味しかった。そしてシャイ。言葉は通じないものの、シャイを挟んで地元の人達と過ごすのも、楽しみのひとつだった。


Socotra / Yemen 1992



 ある日ドイツ人の彼と二人で、エアポートの方へ向かって歩き出した。相変わらず曇ってはいたが、景色はいつもと変わらずよかった。途中で軽トラックが来たので乗り込んだ。岬を越え、やがて砂浜に着いた。
 
 ここも小さな村のようだ。トラックを降りた途端、子供達に囲まれた。村の中を歩くと、子供達もぞろぞろついて来た。振り返るとさっと身を引き、何やらコソコソ。はっきりいって、あまりいい気がしない。これまで旅の途中で、まとわりついてくる子供達をわずらわしく感じることがあったが、この時もそんな感じだった。
 
 そこで僕が、「この近くにレストランはあるか」と、子供達に向かって訊いてみた。彼らは吃驚して、互いに顔を見合わせた。レストランという単語が分からなくても無理はない。僕はグラスを空ける真似をして、「シャイだよ」と言った。今度は通じたようだが、子供達は残念そうに首を振った。仕方がないな。今日は昼飯抜きか。やがて僕達は村を離れ、海の方に向かって歩き出すと、子供達もついて来なくなった。

 しばらく浜を歩いていると、再び子供達の声がした。振り返ると、何か叫びながら走って来るのが見えた。やがて追いついた子供達の手には、ポットとグラスがあった。シャイを持ってきてくれたのだ。ああ・・・

 自己嫌悪とやっぱり感激を味わいながら、早速いただくことにする。僕達がシャイを注いでいる間、子供達は座り込み、こちらの動作をじっと見守っていた。子供達の顔立ちは、この島の歴史を物語っているように見えた。インド人やインドネシア人のようにも見えるし、アフリカ人そのものといった子まで様々だった。

 グラスを軽く掲げ、口にする。飲み干した瞬間、子供達から拍手と大歓声が沸き起こった。僕とドイツ人は思わず顔を見合わせ、わけも分からず大笑い。本当に可笑しくて、笑い続けた。
 

 ソコトラに来て一週間後、僕とドイツ人の彼は、再びムカンラに戻ってきた。このまま飛行機を乗り継ぎアデンに向かう彼とは、ここでお別れとなった。

「キミと出会わなければ、僕がソコトラに行くことはなかったよ。ありがとう」と握手。

 サナアで日本人の彼と出会い南イエメンに来て、ムカンラでドイツ人の彼と出会って、僕はソコトラに行った。出会いの連続が、旅の中身をどんどん変えていったわけだ。これこそが、ひとり長旅の醍醐味ですね。


Socotra / Yemen 1992

Short Stories − 乞食船に乗って ネパールータイ 1988年 

Lovely Life or Hell