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 十一年振りのシーサンバンナ 中国/磨憨/mohan 1997年 2008年

 場所の制限つきながら個人旅行が出来た中国と違って、僕が旅を始めた1986年頃は、ラオスは行けない国だった。その頃持参した「地球の歩き方 やすらかなる国 タイ」(確かこんなタイトル?)には、メコンを挟んでラオスと向き合っていたノンカイの街について、「対岸は今は行くことが出来なくなったビェンチャン」といった描写がされていた記憶がある。その後何時からかは知らないが、ベトナムなどと並んでラオスも普通に旅することが出来るようになった。とりたてて興味もなくラオスのことなど気にも留めないままアジア旅行を繰り返していたが、旅のルートの自然な流れといった感じで、1997年の6月に初めてラオスに足を踏み入れた。

 その前の年の11月にタイを出発して、年を跨いでこれも初めてだったカンボジアとベトナムを経て、4月に中国の雲南省に着いた。そして大理/daliや瑞麗/ruiliといった雲南の各地を廻り、昆明にあったラオス領事館でビザを取って、シーサンバンナの景洪/jinghongに行った。半年あまりのインドシナを巡る旅も最終段階で、後はラオスを縦断してタイに戻り、日本に帰るだけだった。



 ラオスとの国境の街である磨憨/mohanは何もなかった。今ほど交通が便利でなかった当時であっても国境に泊まる必要はなかったが、ミャンマーと接した瑞麗の街が思いのほか活気があったので同じ雰囲気を期待して来てみた。しかし見事なまでに思惑が外れた感じだった。メインストリートが舗装されてたかは記憶にないが、椰子と赤土の道が目立ち、人と車の存在が目立たない村だった。とりわけ期待していた瑞麗の夜で見かけた紅灯を始めとした猥雑な光景は見る影もなかった。昼も夜も、ただただ静かな村だった。

 とはいえそこは国境ということで、国境を感じさせる二つの事を憶えている。一つは暇な夜にビールを買いに出かけた時のことで、雑貨店には浅黒い顔をした少女が何か読み物をしながら店番をしていた。「啤酒/pijiu」と言っても通じなかったので、僕は紙に書いて示すと、「私はこっちだから」といった感じで、少女が手にしていた小冊子を差し出した。見るとページ一杯にクネクネとしたラオス文字(か傣文字)が書かれてあった。どうやってビールを手に入れたかは憶えてないが、否が応にも二つの国に跨った土地を感じさせる出来事だった。

 もう一つは、これは事前には意識していなかったが国境の街に来る唯一の見所とでもいうもので、夕方の5時か6時に粛々と遂行される国旗降納ならび国歌斉唱だった。朝もやってたかもしれないが、夕方の決まった時間になると遮断機が降りた検問の傍に、緑服に身を包んだ5人くらいの職員が集まった。そして何か号令をかけながら、「かけっこ」の姿勢できびきびと動く職員達の姿が凛々しく、これを見れただけでも来た甲斐があったと思った。



 2008年の7月に再びこの街を訪ねた。別に国境マニアというわけではないが、その頃ベトナムのディエンビェンフーという街とラオスとの国境が開いたというネタをネットで見つけ、面白そうだから行ってみようという気になった(実際にこの国境が外国人に向けて開いた正確な時期は分かりません)。そのままラオスに入りルアンナムターという街に着き、後はもう南下してタイに戻り日本に帰るだけだったが、折角ここまで来たんだからと、地図上では思いのほか近いシーサンバンナに行ってみようという気になった。

 思いのほか近い以前にたった一日で着いた。それも明るい時間に着いたので、やろうと思えばルアンナムターと景洪の間は日帰りでも可能なのかと思った。国境の光景は両国の力関係を見せつけるものだった。多くの中国人で賑わうラオスの出入国審査の場では中国語が飛び交い、係官が話していたのは明らかに中国語だった。制服を身に纏った浅黒い顔の係官らが、紙片を手にした中国人の無秩序集団に圧されながら、「要/yao」とか「不要/buyao」とか言ってるのを見て、数あるラオスの国境の中でも最もストレスの溜まる職場ではないかと思った。

 一方中国側の入国風景は、それはもう長閑なものだった。係官は極めて分かり易いカタカナ英語を話し、何一つ問題なく入国できた。確かめたわけではないが、つい今しがた後にしたラオスの出入国審査の光景が過ぎり、ここの係官らはラオスの言葉が話せるのだろうかと思った。たまたまかもしれないが、ラオス人の入境者の姿はなかった。審査を終えるや否や待ち構えていた客引きに誘われるまま、勐腊/menglaに行くワゴンに乗り込んだ。

 十一年振りに来た景洪の街も、かって秘境と謳われたシーサンバンナの見る影もなかった。既に97年の頃に中国通の旅行者から、「景洪は醜くなった」といった話は聞いていたが、醜いかどうかはともかく、大ではないものの都会に変貌を遂げたのは明らかだった。車の往来が激しい幅の広い道に戸惑いつつ、記憶を頼りに版納賓館を目指すが見つけることが出来なかった。やむなくタクシーに乗ったが、愛想のいい運転手から、「版納賓館は閉まった」と言われた。これは事実だった。彼に案内された宿に落ち着き、バスターミナルで手に入れた地図を睨みながら、改訂を怠っているのか記されていた版納賓館の場所に行ってみると、ものの見事に更地になっていた。バックパッカーライフを満喫した思い出深い宿が、またひとつ消えたわけだ。



 残された時間が殆どなかったので、一泊だけして再びラオスに向かった。道は溜息が出るほど良く、僕が乗ったワゴンは瞬く間に勐腊に着いた。そこで国境に行くワゴンに乗り換え、これも程なく磨憨に着いた。入国して間もなくワゴンに乗ったこともあり来た時は意識していなかったが、いくつかのホテルが立ち並ぶ磨憨の街は、新興を地で行くような綺麗な街だった。完全に舗装された通りは綺麗に区画整理され、何時でも人を受け入れる態勢が万全に整っている感じだった。

 時間は十分あり人民元が余っていたこともあり、最後に中華料理を満喫するかとホテルに併設されていた一軒のレストランに入った。昼時ではあったが客は誰もおらず、天井がふき抜けとなっていたレストランから見える客室の様子は静寂に包まれていた。実際そうで、注文を取るべく立ち会った主人に訊いてみると、宿泊客は殆どいないとのことだった。どうやら国境貿易というバブルを期待して投資したように思えたが、愚痴めいた口調で話す主人の表情を見る限り、完全に当てが外れたようだった。

 毎日多くの中国人が通過するものの、多くの人はここには泊まらない。せいぜい出国手続きの時間を利用して、記念写真を撮るくらいだった。ラオスからは誰も来ず、中国人ばかりの一方通行では仕方がないんだろうかと思った。どちらにしても人が来てくれさえいいというわけではない、国境での商売の難しさを感じた。

 辺鄙な村という印象しかなかった磨憨の変わりようは、見た目には隔世の感を味わうのに十分なものだった。そして国境にありがちな喧騒とは無縁の平和で静かな空気は、十一年経っても全く変わらないものだった(2008年の6月の僕の印象です。現在の状況は知りません)。


最後の砦 北京飯店 タイ/バンコク 1986年より多数

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