中国遊記/広州到着 広州/Guangzhou/广州 2005年
パンドラの箱を開けてしまったというわけでもなかったが、2004年のタイ旅行で七年近く忘れていた旅魂に火が点き、その一年後の2005年の10月に遂に出ることにした。といっても昔みたいに一年を越える旅をするわけにもゆかず、しかし一週間では短すぎるということで、期間は二ヶ月に決めた。この旅の一番の問題は言うまでもなく予算だったが、ある意味それより重要なのが帰ってきてからの仕事探しというものだった。しかしアルバイト先に話したところ、「じゃあ帰って来たらまたおいでよ」ということで、あっさり解決した。やはり干からびた中年フリーターとはいえ、日頃の勤務態度は大事だということが身に沁みて分かった。 期間が二ヶ月ということで昔みたいに引っ越したりする必要はなかったが、生まれて初めて家賃の前払いというものをした。更に電話などの通信費や保険といったものを計算すると、これが旅で予定していた滞在費と大差がなかった。今まで全く意識していなかったが、人(日本人)は何も食べなくても普通に存在するだけで、こんなに金がかかるものかと思った。これなら一回の旅の予算で二回の旅が出来るじゃないかと思ったほどだった。アパートを維持したまま旅をするのは何て不経済なんだろうと思ったが仕方がない。まさか帰国して早々ロンプラ片手に宿探しならぬ、アパマン片手に部屋探しをするわけにもいかない。 『西洋人が四百年かけて経験してきた天と地ほどの差のあるふたつの時代を、中国人はたった四十年で経験してしまった』(余華/yuhua「兄弟」のあとがきより。この本自体を僕が読んだのは2008年頃です) 世間の事情に疎い僕でも、近世で最も急な変化を遂げたのが中国であることくらい想像できた。おそらく旅の世界でも変わっているだろうということで、あっさり行き先は中国と決めた。中国自体は90年代に半年あまり滞在したことがあったが、ほとんど雲南省にいて広く旅したことはなかった。あの頃は連日のように日本人達と無駄話に明け暮れ、必ずしも皆同世代というわけではなかったが、ある意味バックパッカーの王道ともいう時間を過ごしたものだった。しかし同じ思い出が再現されるのではと期待するのも馬鹿な話で、大体もう僕は若くなかった。この先長い旅など出来ないだろうからと、行ったことのない場所に絞ることにした。 ![]() Narita Air Port/China 2005 中国に最後に行ったのは八年前だが、広州に来たのは十五年振りだった。 あまり意識していなかったが、10月3日に着いた広州の空港で、この時期が国慶節であることを思い知らされることになった。両替所ではトラベラーズチェックの両替を拒否された。仕方がないので一万円札を使ったが、いきなり自分の情報収集能力に自信が持てなくなった。しかし僕が航空券を買った都内の旅行会社は、個別のセクションがあるほどの中国通だったはず。何でこんな重要な情報を教えてくれなかったんだろうと思ったが、これも自己責任と諦めるよりほかない。因みに両替には翌日も悩まされることになった。中国銀行に行くが、営業こそしていたものの、TCどころか現金さえも両替を拒否された。とっくにカード&ATMの時代に入っていたということだろうか。中国以前に単純に時代の変化を味わされた旅の出足だった※1。 空港を出ると揃いの制服を着た女性達に、「トーナーリ?」と声をかけられた※2。彼女達は市内に向かうバスの案内係で、僕が行く予定だった火车站/huochezhan/鉄道駅は三回くらい言って通じた。声調や日本語にはない母音が絡む中国語の発音は、あらためて骨が折れるほど難しいことを思い出した。このバスはどうやら定員以上は載せないようで、昔もそうだったのかは憶えてないが、意外ときちんとしてるんだなと感じた。 既に暗くなっていたが、車窓から見る広州の街はバンコクにそっくりに見えた。とりわけ古びたビルに貼り付いているような刻印といっていい漢字の看板が、かって何度もバンコクの空港からバスに乗り、やがて市内に入ると目にした騒々しい眺めを再現しているようだった。夜のバンコクと似た感じの温い空気も関係あったかもしれないが、やはりバンコクは広東人が造ったのかなと思った※3。どちらにしても旅の初日に訪れがちな昂揚感は、僕の中では健在なのを確認しほっとした※4。 駅に着きバスを降りると、今度はパンフレットを持ったホテルの客引きの女性達に囲まれた。何だかんだいっても疲れた初日の最後の仕事といった感じで、値段だけ確認し二人の女性に付いて行った。案内された宿の部屋は旅社を小奇麗にしたような感じだったが、もう動く気はなく決定した。荷を置いて呆然と見回し、あらためてパンフレットの写真は上手く撮れてるなあと感心した。 ![]() とくべつ切符を買うなどの目的があるわけではないが、翌朝は早速駅に行ってみた。この街の見所以前に久しぶりの中国を味わうことが自体が目的だったので、それには何を措いても駅といった感じだった。十五年前の記憶は殆どなかったが、駅前の無目的広場といった感じの眺めは、あの頃もそうだったんだろうなと思わせるような光景だった。列車を待っているのか大きな荷物の傍にしゃがんでいる人もいれば、列車から降りたばかりなのか何処かに行き交う人の波が絶えなかった。ゴーカードのような乗り物で徘徊する二人組くらいの公安がしきりに行ったり来たりしているので、一応昼間なら安全かなと思った。 とりあえず周りの様子を窺いながら写真でも撮ろうと辺りを見渡すと、駅舎の上に广州站と記されているのが目についたて、おやと思った。僕の記憶に間違いがなければ、ここには廣州と書かれてあったはずである。確かあの時はその古風な文字を見て、何ていうか大陸に来たという実感が湧いたものだった。駅舎には足場が張り巡らされ改装中のように見えたが、これを機に付け替えたのだろうか。繁体字から簡体字に変わったというだけだが、時代の流れだから仕方がないと思う反面、威厳のある繁体字を変えるなんて勿体ないなあという感じもした。 広州市の中心部の南を流れる珠江/zhujiangを目指して、適当な路地に寄り道しながら歩いてみた。下町といえるかどうか分からないが僕が歩いた場所は、広州は巨大なヤワラー(バンコクの中華街)と思わせるに十分なものだった。とりわけ瓢箪のような形をした歩道の敷石や、横に開く鉄格子のようなシャッターが付属された店の見かけが、かって数えきれないくらい徘徊したヤワラーの路地そのもののように感じた。やはりあの街を造ったのは広東人に違いないという思いが益々募ってきた。 一時間ほど歩いて辿り着いた珠江に面した辺りは、市民の憩いの場という言葉が完全に当てはまる場所だった。大きく開けた川の眺めは開放感に溢れ、記念写真を撮ったり散策する人達で賑わっていた。日本はそうでもないが、アジアの都市部に暮らす人達にとって街の中心を流れる大河の畔の役割は、何処も似た感じなのかと思った。水に触れた風の涼しい感触は心地よく、僕も駅前の喧騒とはかけ離れた雰囲気に浸っていると、十五年前(1989年)にこの川から出ていた船に乗って海南島に向かったことが思い出された。 ![]() Guangzhou/China 2005 珠江を左手に見ながら、暫くは川に沿って歩く。かって初めて広州に来た時も、目的の宿を目指して重いリュックを背負って歩いた道だった。この辺りまで来るとヤワラーの雰囲気は微塵もなく、替わって古い西洋の面影に包まれた。この沙面/shamianと呼ばれる一角は、大戦前は外国の公館などが建ち並ぶ租界だった場所で、僕が広州にいた頃に泊まった宿があったのもこの近くだった。その宿は今でも残っていた。建物だけではなく今もホテルとして運営されているようで、斜向かいにあった白天とかいう大きなホテルもそのままだった。近くにセブンイレブンができたことを措けば、周辺の光景は全く変わっていないように見えた。 ひとつだけ変わったことがあるとすれば、あの頃宿を出る度に遠目から合図を送ってくる、あまり裕福とはいえない身なりの男女がいなくなったことだ。当時はFECと呼ばれる外国人専用?の通貨があり、僕達旅行者が銀行で両替すると、手にする紙幣は必然的にFECだった。彼らは中国人にとっては色んな意味で価値のあるFECを、人民元と引き換えに旅行者から手に入れる役割を担っていた。交換率がどうだったかは憶えてないが、あの頃の旅行者は当たり前のように彼らを利用していたので、旅行者にとっても得なものだったと思う。そのFECも二度目の中国旅行となった97年には無くなっていた。それに伴い彼らも姿を消したわけだ。 帰りは違う道を通って駅に向かった。駅の近くにバスターミナルがあったので明日の下調べも兼ねて寄ってみた。目的地だった梧州/wuzhouに行くバスの存在を確認し、さりげなく壁に掲げられた巨大な時刻表を見ていると、武漢という文字が目に付いた。どれくらい離れているのかは知らないが、広州から見ると異郷といった感じの土地名を目にした時、むかしイスタンブールのバスターミナルに行った時の事を思い出した。あの時も時刻表の中にヨーロッパの都市名をいくつか見つけ、大陸にいるという実感を覚えたものだった。 始めに駅舎の看板が廣州から广州に変わったのを見て時代の変化を感じた。しかし街を歩くうちに十五年前とさほど変わらない空気に触れることも出来た。そしてここに来て、漸く大陸中国に来た実感が湧いてきた。 ![]() Guangzhou/China 2005 ※1 市中の銀行の外貨両替業務の停止については、訊いたところ確かに国慶節の影響でした。ただ空港については詳しいことは分かりません。その一週間くらい後に外国人にも有名な陽朔という所に行ったのですが、問題なくTCの両替が出来ました。いずれにしても2005年の10月のことです。 ※2 漢字不明。「到哪里/daonali/何処に着く」が訛ったもの? 広州に限らず少なくとも僕が行った雲南も含めた華南地方では、バスの客引きやタクシードライバーから、よく「トーナーリ?」と訊かれました。 ※3 人が古来からいるということを考えると造ったということはいえないかもしれませんが、バンコクの街の発展に広東人が影響を与えたことは事実だと思います。因みに広東人といってもバンコクのヤワラーを発展させたのは、同じ広東省から来た主に潮州人のようです。潮州という街は広東省の北辺にあるのですが、街並みがヤワラーと似ているといった記述を読んだ記憶があります。一度行ってみたいものです。 ※4 これを失った時が、僕にとっては旅を止める時です。勢いこそ減りましたが、今のところ大丈夫のようです。 |
中国遊記 2005年 - 開放的梧州の日々 梧州/Wuzhou
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