開放的梧州の日々 梧州/Wuzhou 2005年

 バスが梧州の街に入るとまず目に付いたのが、「开放的梧州欢迎您」と書かれた道路を跨ぐアーチだった※1。むかし80年代の末期にも空港などで目にした「礼貌ナントカ(もしくはナントカ礼貌)」といったスローガンと似た感じがしたが、初めて訪れる街には若干の不安が入り混じるのは今も変わらないので、、ここは無理にでも期待を高めることにした。そしてバスが着いた所はゴミゴミとした下町といった感じがしたのでほっとした。最近ではバスターミナルが郊外に移転することは珍しくないので、これなら市内バスやタクシーに乗る手間が省けたわけだ。

 バスターミナルの周りには二軒のホテルのほか招待所と記された看板を掲げた宿泊施設が集まっていた。少し行くと右側に歩行街と標示された場所があり入ってみると、洋館といった感じのする白やピンクで彩られた建物の間を自転車と力車が行き交う綺麗な通りだった。映画のセットのような感じの道を進むと間もなく歩行街は途絶え、再び車とバイクが行き交う喧騒な通りに出た。

 道の両脇に露店の果物屋台などが連なる通りを更に歩くと、左側に大東旅店と書かれた看板が目に付いた。外国人でも泊まれるかなと細く薄暗い階段を前にして思ったが、駄目なら駄目でバスターミナルまで戻れば済むだけだ。いよいよバックパッカー復活の旅が始まったかなと少し意気込んで、足元に気をつけながら階段を上がった。

Wuzhou/China 2005



 旅社や招待所といった宿に泊まれるかが、今回の中国旅行の関心事のひとつだった。1990年前後でも泊まることは出来たが、心証で言えば法律とかより宿の裁量に依るところが大きかったように思う。実際に問題なく泊まれることもあれば、門前払いを地で行くような応対をされたこともあった。その後雲南省では解禁されたとか、他の地方でも緩和に向かっているとかいう報道もあり、全体としては以前ほどには気を使わなくてもいいように感じていた。

 ではなぜ旅社や招待所の宿泊の可否に拘るかというと、単純に安いからである。中国の生の姿を見てみたいといった理由も付けられなくもないが、とりわけ交通費も含めた一日の予算を20ドルほどで済ませたいと考えている僕のような旅行者にとって、寝るだけといった宿の値段を抑えるというのは必須条件だった。勿論全てを値段だけで判断するわけではないが、実際に泊まるかどうかは別として、やはりその可能性は留保したいもの。名所などの入場料は誰でも同じなので諦めもつくが、宿や食事や交通といった予算は、やり方次第でどうにでもなるのが個人旅行の醍醐味のひとつだと思う。

 まさか外国人が集まるホテルとは思えなかったが、案ずるより産むが易しというか、大東旅店の主人は拍子抜けするくらいあっさりと受け入れてくれた。はじめ中国人だと勘違いしたのではと思ったが、パスポートを見せても珍しがることこそすれ普通に登記を始めた。とはいえ見方が分からないようだったので、僕がビザのページや旅券番号などを片言の中国語を交えながら示した。この「登記手伝い」は、この先も旅社や招待所に泊まる度に繰り返される、絶好のコミュニケーションの機会となった。

 お湯の入ったポットを手にしたおばさんがニコニコ笑いながら案内してくれた部屋は、正統派ともいうべき旅社そのものだった。茣蓙が敷かれたベッドの上には丸まった布団が置かれ、その真上の天井からは畳んだ蚊帳が吊るされていた。部屋は双人房(もしくは双人間と呼ばれる二人部屋)だった。二つのベッドの間には机と椅子があり、その正面にある大きな窓からは明るい光が差し込んでいた。

 トイレとシャワーは共同だったが、不満があろうはずもない。寧ろ期待以上といった感じだった。これで宿泊料金は20元。広州で泊まった薄暗かった部屋の五分の一の料金で済んだ。


Wuzhou/China 2005



 旅行前に調べた英文の旅行サイトの梧州の項には、"market town"と書かれてあった。実際そうで、宿の周辺は通り全体が市場といった感じだった。10月初旬の梧州は暑かったこともあり、「明るく活気溢れる東南アジアの市場」そのものという感じがした。この時点でアーチに書かれていた「开放的梧州」は、看板に偽りなきと確信した。

 その通りから南に数百メートル行くと、堤防に遮られた西江/xijiangに出た。堤防の上は遊歩道のようになっていて早速上がってみるが、暑さのためか人の姿は全くなかった。かってここからは広州に向かう客船があり旅行者も利用したものだが、バス網が発達した今はどうなんだろう。暑さを堪えながら目にする広々とした川の眺めは、確かに大動脈という感じはした※2


Wuzhou/China 2005

 再び宿の近くに戻り、今度は北に向かって適当な路地に入ってみた。そこはもう、「一歩入れば百年老街」といった感じだった※3。実際には普通の住宅街なのだが、煉瓦色した頑強な建物の間の石畳のような道は狭く入り組み、傾斜した所には道がそのまま階段になっている箇所もあった。道を挟んだ建物がゲートを介して繋がっている所もあり、初めて来る分には異国情緒を感じさせるに十分なものだった。広州でもヤワラーでも見たことがない造りだった。住宅街を抜け高台に沿った車道に出た。振り返ると今しがた通ってきた住宅街の煉瓦色の眺めは、むかし行ったカトマンズのような感じがした。

Wuzhou/China 2005



 旅を重ね異国の事情を自分なりの立ち位置で理解してきたつもりだったが、アカデミズムとは無縁の暮らしをしてきた事実を思い知らされることとなった。中国の都市には何処にでもある、「中山路/zhongshanlu」という通りの名前のことである。

 この梧州にも中山路があり、傾斜のある道を上がりきった突き当たりにあるのが、これも中国の街では珍しくない名前の「中山公园/zhongshangongyuan」だった。公園全体が小山のようになっていて汗をかきながら登りきると、変な表現だが公園のような広場に出た。そこには銅像があって、「孫中山」と刻印されていた。はじめ地元の名士か何かかと思ったが、そこで出会った英語が話せる人に訊いてみると、あの孫文のことだと分かった。

 孫文の別名(号)が孫中山であることを初めて知った。中山という名の付いた地名が中国に溢れている理由を初めて知った。インドでいうなら一般にはMGロードとして知られる、これもインド全土の街にあるマハトマ・ガンジー通りと同じ発想だったわけだ。これまで深く考えたことはなかったが、中山という語感からして、中庸とか平凡を意味する差し障りのない命名だとばかり思っていた。アカデミズムというほどの大袈裟なことではないが、何にしても知ってよかった。


Wuzhou/China 2005



 大東旅店を拠点とした梧州の毎日は、午前中は朝早くから街を散策し、暑さがそろそろピークになる頃を見計らって一旦宿に戻り、食後の読書や昼寝などを貪ったあと、夕方近くになって再び散策といった感じだった。これは中国に限らず、かって熱帯アジアを旅していた頃と同じ行動パターンだった。別に真新しいものではないが、無理しないという長期旅行で身につけた一種の術のようなものだった。

 食事は正確な名前は知らないが、朝は雲南で食べたこともあるミンセンに似た麺類か、餅のような白い玉がいくつか小椀に入った汁物だった。これに茶色く細長い揚げパン(油条/youtiao?)のようなものを二切れほど添えるのが毎朝の定番だった。一度店員の少女が何やら熱心に勧めるので意味が分からず承諾すると、出てきたのは温い豆乳だった。見ると周りの客達も口にしていたので、どうやら揚げパンと豆乳というのもこの地の朝食の定番のようだった。

 昼は何といっても、「快餐/kuaican」だった。これは庶民にとっても予算を気にする個人旅行者にとっても、正義の味方といえるものだった。十種類かそれ以上の惣菜が入ったトレイの中から好きなものを指差し、それをトレイの向こう側にいる店員が皿に盛られた白飯に載せてくれるもので、東南アジアでいうなら「ぶっかけ飯」というものだった※4。はじめ要領が分からなかったので、とりあえず5元分の食券を買い指定した惣菜を盛って貰うと、店員のおばさんが、「あと一品いけるわよ」ってな感じで何やら言ってきた。個々の惣菜の値段は分からなかったが、僕が通い詰めた店では、「5元で二肉一野菜」という感じだった。そして何より量が多かった。惣菜もご飯もたっぷりといった感じで、この点に限って言えばタイなどのぶっかけ飯との決定的な違いだった。

 全ての快餐店がそうかは知らないが、この店では持ち帰りも出来た。「打包/dabao」と言えば、「ほか弁」のような容器に入れてくれた。量が多いため蓋が盛り上がったほか弁を持った僕が向かった先は、わが大東旅店の斜向かいにあった雑貨屋だった。2,5元で売られていた啤酒/pijiu/ビールを買うのが、朝の散策を終えた昼前の何時もの行動パターンだった。

 そして部屋に戻り、明るい陽射しが差し込む机の上に大盛り弁当とビールを置く。昔は一人でも屋台などで呑んだくれたものだが、この「部屋でビールと共に食べる食事」こそが、最近の僕の旅のメインイベントとなった。


Wuzhou/China 2005



 この大東旅店の宿泊客について詳しいことは分からなかったが、バスターミナルから離れていることもあってか、どちらかと言えばアパート代わりに使っている人が多いような印象を受けた。また暑さのためかドアを開けっ放しにしている人も少なくなかった。とりわけ印象に残っているのは、何時もベッドに寝転がったまま煙草を吹かしている三十歳くらいに見えた女性だった。一人で住んでるのか何を生業としているのか全く分からなかったが、僕が昼前に弁当とビールを抱えて宿に戻ると、何時でも彼女が同じ姿勢でいるのが目に入った。

 宿は明らかに家族経営で、受付の傍にあった卓を囲んで、子供も交えて食事をしている場面に何度か出くわした。インドは勿論タイなどでもあまり見た記憶のない光景だが、この家族で食事をとる姿を目にすることが多いのも、見所ではないが中国旅行の特色のような気がする※5
 
Wuzhou/China 2005

 国慶節のためか西江の傍にあった広場には、夜になると様々な夜店が並んだ。とりわけモンゴル人が営む羊肉の串焼きや、何人かは分からないが雀の唐揚げ?を山のように盛った店などの周りは、買い求める多くの人で賑わった。こんがりと茶色くなった犬をぶら下げたレストランもあったが、安くはないだろうし一人ではどうしようもない。屋台の食べ歩きが、僕の梧州での夕食となった。

 この夜の広場の見所のひとつは、僕にとっては毎晩行われるダンスだった。日常的にやってるのか国慶節のためかは分からなかったが、広場に百人くらいの女性が集まりポップミュージックに合わせて踊りだすのだ。女性達の年齢はばらばらだったが、十代のような若い人はいなかったように思う。どちらかといえば中高年が多いような印象を受けたが、彼女達が一斉に同じ動きをする様は壮観で、一種のマスゲームを見ている感じがした。

 その集団の傍には踊りを見守る(おそらくは)彼女達の子供と、その子に寄り添うおばあさんの姿も何組かあった。こういった行事は昔からやってたかもしれないが、この開放的梧州の人々のありようを見ながら、やっぱり中国は変わったんだなと思った。


Wuzhou/China 2005



※1 こう書かれてあったと記憶してますが、語順など細かな部分は異なっているかもしれません。この中国で頻繁に目にする街の出入り口やホテルの門を跨ぐアーチという発想は、何処から来たのか興味があります。日本人より強い土地や建物に対する領有意識の現われのような気もしますが、どうですかね。

※2 あくまでネットで見た情報で確証は全くないのですが、この区間を結ぶ客船はどうやら廃止されたようです。これを気にする旅行者は少なくなかったようで、2009年頃までのロンリープラネットのサイトのフォーラムでは、この船の情報を交換する書き込みが散見されました。
 因みに船といえば、1990年に広州から香港までのナイトボートに乗りました。当時は日本人も含めてこれを利用する旅行者は少なくなかったと記憶してます。この船が今でも就航しているかは知りません。

※3 この百年老街/bainianlaojieと呼ばれる場所は、華南地方では広東省の汕头/shantouと広西壮族自治区の北海/beihai が有名ですが、梧州のこの地区がそう呼ばれているわけではありません。あくまで僕の心証です。
 梧州の街歩きの見所といえば、角ばった柱に特徴のあるパステルカラーに彩られた洋館風の建物が一部マニアの間では有名ですが、この中山公園の周りの住宅街の散策もなかなかいいものです。

※4 この快餐も具に見ると、店によってシステムなど微妙な違いがありました。最も多かったのが値段を指定して先に食券を買うパターンでしたが、先におかずを盛って貰い、それを見た店員が値段を言うなど様々でした。また食器は陶の皿が一般的でしたが、広州で入った店では発泡スチロールの器に入った「ほか弁」のようなスタイルで出されたこともありました。

※5 90年前後の話ですが、東南アジアをうろついていた頃に香港映画に填まったことがあります。とりわけ通ったのがペナンにあった映画館ですが、内容の如何を問わず観た映画の全てに家族で食卓を囲むシーンが出てきました。今から思うと食事のシーンなど日本映画でも洋画でも普通なのですが、その頃は映画とは関係なく家族で食事をとるということが、中国人には人生そのものではないかと思いました。



広州到着 広州/Guangzhou/广州 2005年 - 西街散歩 陽朔/Yangshuo/阳朔 2005年

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