Short Stories

 イスラエル人とフランス人 ネパール/アンナプルナ 1991年



Part 1

 噂には聞いていたのでこの結果そのものに驚くことはなかったが、半日かかって手に入れたのはテレックスの領収書だけだった。パスポートは返して貰ったものの受け取りが15日後。カトマンズで申請したインドのビザである。どういう事情があったのかは知らないが、かっては申請から2,3日で貰えたインドのビザが、その頃急に手続きが複雑になった。これがカトマンズのインド大使館だけのケースなのか、第三国の公館でも同様なのかは分からなかったが、日本人だけに適用されたものでないことだけは確かだった。なぜなら傍に並んでいた白人達も一様に頭を抱えていたからである。

 しかしこれは僕にとっては、さほど不利な出来事ではなかった。アンナプルナでのトレッキングを目論んでいた僕には、二週間という待ち時間は丁度いいように思われた。ネパール入国直後にビザを申請したのは正解だった。

 この91年の旅の目的地はイエメンだった。もっといえばアフリカだったのだが、このイエメン行きの経緯については別項で書いたので措く。その当時持参していたガイドブックには、イエメンへの入国経路の選択肢としてインドのボンベイが挙げられていた。だからインドビザということになったのだが、じゃあ何故ネパールトレッキングかというと、理由はイエメンではなくアフリカとトレッキングそのものにあった。

 今から思うとアフリカという響きに過剰に反応していた部分もあったのだが、アフリカ旅行はとにかく体力が必要だと思っていた。出国直前までそれなりの肉体労働をしていた僕だが、こんなんで通用するんだろうかという不安があった。そこで都合よく思い立ったのがネパールトレッキング。どうせインドまで行くのだから、先にネパールに入るのも悪くない。せめてアンナプルナのトレッキングくらいこなせないとアフリカを歩くことは出来ないと真面目に考えたわけだ(もちろん徒歩によるアフリカ旅行を計画していたわけではないのですが)。
 
 因みにアンナプルナを選んだのはトレッキングルートの歯応えというより、その頃旅行者の間で何かと評判の良かった、このトレッキングの起点となるポカラという街に興味があったから。



 日本にいる時はほとんどいや絶対に話す機会のなかった白人達と接することが出来るのが、その頃の僕の旅の楽しみのひとつだった。勿論白人に会うためにアジアに行くのではなく、「現地の人との触れあい」なんてのも重要な要素だったのだが、日本人も含めた旅人同士の交流はやはり捨てがたい魅力だった。

 白人といっても色々いるわけで多くの旅行者と接していると、いきおい国籍別傾向なんてものが自分の中で芽生えてきた。勿論それは自分が会った人がこうだったという個人体験に基づくもので偏見以外の何物でもないのだが、この種の話題で日本人達と盛り上がることもあった。主題というかネタは概ね一致していた。二つばかりあって、そのうち強力に一致したのが、「イスラエル人の評判」だった。

 僕が初めてイスラエル人旅行者と接したのは、初めての海外旅行となった1986年の5月頃だった。タイのチェンマイでトレッキングに参加したメンバーに二人のイスラエル人の男性がいたのだが、実際僕以外の参加者は彼らだけで、タイ人の男性ガイドひとりを加えた四人で、何とかと言う山岳民族の村を巡る山歩きに出発した。その頃イスラエルという国名に全く馴染みのなかった僕は、彼らの顔立ちがいわゆる白人顔だったので、ヨーロッパの何処かの国から来た旅行者という認識しかなかった。

 古い話だがいくつかのことは憶えている。毎回僕達が村に着くと、必ずと言っていいほど数匹の犬が吠えながら駆け寄ってきた。すかさず二人が石を拾って犬に向かって投げた。何もそこまでとは思ったが、この行為をどう判断していいものか分からなかった僕は、何をすることもなくただ立っていた。

 一軒の高床の家に招かれた時のことも憶えている(この先の五六行は、誰でも安心して読めるかどうかは分かりません)。愛想のいい女将さんが出迎えてくれ、傍の板の間には息子か娘かは分からなかったが乳児と幼児の中間くらいの子供が座っていた。と、突然ブブブという音と共に子供が座ったまま便を噴出した。すかさず家の周りにいた二匹くらいの犬が駆け寄ってきて、板の間の汚れを猛烈な勢いで舐め始めた。やがて犬が去ると、桶を持った女将さんがその箇所に水を撒き、こちらに向かって照れ笑いを浮かべながら足の下に敷いた布で床を拭き始めた。

 これなど僕にとってはなかなかの感動的な場面だった。上にはシャツを着ていたと思うが、子供が下に何も穿いてなかったのはこのためだったのかと感心もしたが、後の二人は顔を見合わせしかめっ面をするばかりだった(そのずっと後に読んだ本で不覚にもタイトルは忘れたが、この子供の排泄物を食する犬に対して、「やがてその子が成長すると、犬はその子に対して愛情を抱くようになる」といった一節を読んだ記憶があります。その一文を読んだ時、このトレッキングでの出来事が強く思い出されました)。

 トレッキングが終わり、僕達はがっちり握手して別れた。二人は英語が下手な僕にも愛想が良く、楽しい山歩きの時間が過ごせたと思う。彼らの姿が見えなくなり、僕とガイドは二人っきりになった。「クレイジー」と苦虫を噛むような表情でガイドが言った。村の犬に石を投げたことなのか、あの子供がいた家での出来事に対する彼らの態度についてなのか、あるいは僕の知らないところで彼らと何かあったのかは分からない。ただ彼の話した英語の主語が、「They」とかではなく、「Israel people」だったことは憶えている。



Part 2

 ポカラに着いた翌日にはトレッキングパーミットを取り、その次の日には出発した。不要と見做した持ち物はホテルに預けたが、それでもリュックの重さは15キロほどはあったと思う。同じ方向に歩く白人が多かったのは予想通りだった。少し意外だったのはガイドを連れて歩いている軽装の人達が多かったことだ。こうなると53リットルの馬鹿でかい荷を背負い一人で歩く僕としては、少し浮いた感じがし気恥ずかしくもあったが、これは全く気のせいで、トレッキングを進めるうちに何組もの単独組と擦れ違うようになった(どうやらポカラを出たばかりの山道を歩いている人は、全員が内院やジョムソンに向かうわけではなく、近場でのハイキングといった人も少なくなかったようです)。

 歩き始めて二日目にニューブリッジという処に着いた。名前から察した通り吊橋があり、感じのよさそうなロッジが三軒ほどあった。この時点で午後二時を廻ったところ。微妙な時間ではあった。少し迷うものの次のジヌーという村を目指して歩き出した。当時つけていた日記には、「山の中を引き返した」となっている。詳細が書いてないので何故引き返したのか正確なところは分からないが、おそらくその日のうちにジヌーに着くのは無理と判断したんだと思う。山歩きの初心者の僕が言うのもなんだが、トレッキングでは時にはこういう判断も必要になる。

 もっともニューブリッジまで戻ったわけではなかった。今でもそうだが僕が旅先でつける日記には、可能な限り泊まった土地の名前と宿の名前を書くようにしている。だがその日付の隣には、「川沿いのバッティー(チョムロンの手前)」としか書かれていない。宿の名前を失念することはあるが、土地の名前の記入漏れというのはあまりない。何らかの地名はあったと思うが、そこは村というよりトレッカーのための宿があるだけの所だった。

 ロッジではなくバッティーと書いてあるのもそれなりに的を得ていて、そこはトレッキング中にこれまで目にした宿に比べて幾分寂れた雰囲気があった。正確な記憶はないが、川沿いにこの一軒だけだったように思う。ベッドを確保し旅装を解いて表に出てみた。すでに日が翳っていて、ひんやりとした空気の中に川の流れが鳴り響いているだけだった。川に沿って三つほどのテーブルがあった。そのひとつに白人の男が着いていて、チャイか何かを飲みながら呆然と景色を眺めていた。僕以外の泊まり客は彼だけのようだった。

 いつもなら、ましてや数少ない宿泊客同士とあってすぐに打ち解ける展開になるのだが、どうも人を寄せ付けないような雰囲気が彼にはあった。僕は軽く会釈し、彼と向き合わない形で隣のテーブルに着き、そのままそこで夕食となった。そしてそのまま彼とはほとんど口を利くことはなかった。フランス人だった。



 翌朝は七時半にそのフランス人と共に出発した。昨日引き返した道をどんどん登っていくと、30分くらいでジヌーに着いた。良さそうなロッジも何軒かあり何てこったと思ったが、結果論というよりほかない。昨日はジヌーのすぐ手前で引き返したわけだ。そのジヌーの村の一軒の茶店で休憩となった。僕はペプシかコーラを飲んだが、喉の渇きを覚えなかったか金を節約しているのかは分からなかったが、彼は何も頼まなかった。ほとんど会話はなかった。

 再び歩き出す。途中で景色の良いところがあり休みたかったが、彼はどんどん進んでいった。どうにも声がかけづらく、やっぱり二人で歩くのは駄目だと思った。やがて二時間も歩かないうちに白人達の姿が目に付き始めた。チョムロンという村で、ここから先は内院となる。フランス人の彼は先に進むらしいが、僕はここで泊まることにした。

 昨夜の閉塞の埋め合わせというわけではなかったが、その夜の夕食は同宿のアメリカ人やドイツ人と楽しく過ごせた。ベッド15ルピーの、「Hiunchuli」というロッジはとても感じが良く、携帯したラムもがんがん飲んだと日記ではなっている。何となく今でも思うが、あの日の中途半端な場所での宿泊は僕にとっては偶然だったが、フランス人の彼にとっては意図的なものではなかったかという気がする。白人を避けている白人というか、勘違いかもしれないが何となくそんな気がする(別に良いとか悪いとか言ってるわけではありませんよ)。

 翌朝内院に入る直前で、既に存在そのものを忘れていたトレッキングパーミットのチェックを初めて受けた。ということはチョムロンまでなら必要ないということだろうか。予想通り道は登り一辺倒となった。進むごとに勾配も急になり、道の状態もどんどん悪くなった。ここからが勝負といったところだった。

 チョムロンを出て二日目の昼前には、マチャプチャレBC(実際にはその一時間ほど手前のロッジ)に着いた。日記ではここで二泊し、霧の中を寒さに震えながらアンナプルナBCに行ったり、更にその奥の氷河の凄さに感激したことになっているが、僕には全く別のことしか記憶にない。

 確か昼頃だったと思うが、ロッジの中の馴染みの長椅子とテーブルが並ぶ空間で、数名のトレッカー達が談笑に耽っていた馴染みの光景でのこと。そこへひとりのインド顔したネパール人のガイドが来て、隅に座っていた白人の男に身体を寄せてくれといったことを言った。これは自分も座りたかったからで別に不当な要求ではないのだが、その白人の答えは「Ask〜」。この〜の部分が聴き取れなかったのだが、そのガイドが何度も頼むのに、白人は頑として「Ask〜」と、微塵も身体を動かそうとしなかった。

 それほど僕達はぎゅう詰めで座っていたのではなく、何を依怙地になっているのだと不快な思いがしたが、その白人に対して(勿論僕も含めてだが)誰も何も言おうとしなかった。その白人が、「他の奴に訊け」と言っていたのか、「ロッジの人に訊け」と言っていたのかは分からず仕舞いだが、もし頼んだのが白人だったら同じような受け答えを彼はしただろうかとも思った。「ここは白人(トレッカー)エリア。お前達には別の場所がある」などと、この白人が考えていたとは思いたくはないが。

 もっともこの前だったか後だったか忘れたが、誰のガイドかは知らないが、僕はこの男に煙草を強請られ断ったことがある。元々図々しい感じがすると密かに思っていたのだが、白状するがインドでは全くそう感じなかったが、その頃ネパールのインド顔した人間にいい印象を抱いてなかったのも事実だった。騙された経験もなく理由らしい理由はないのだが(あくまで僕の場合で他の旅行者のことは知らないが、このインド顔の人に対する一種の嫌悪感は、チベット系の顔立ちの人が多いネパールへの親近感の裏返しといった見方は出来ます。ところが不思議なことに後にインドのダラムサラという所に行った時は、これと真逆の印象を持ちました。ここはチベット顔の人が多かったのですが何故か反りが合わず、むしろインド顔の人に味方を感じました。ところでアフリカを旅行していた時は、久しぶりにインド人に出会うとホッとしたものです。理由は、今はやめときます)。

 流石に逃げ場がなかったのかと言うと全くの偏見だが、ここでフランス人の彼と再会した。前日に知り合ったユーゴスラビアのおじさんも一緒で、部屋はまたおじさんとシェアした。

 二泊したそのロッジでのどちらの日か忘れたが、夕食時には僕を挟んで左の角にフランス人が陣取り、右にはユーゴおじさんが座った。三人で同時に注文し、しばらくはチャイを挟んで和やかなムードで過ごした。やがてユーゴおじさんが僕が手にしていたラムを指して、自分にもくれないかと言った。僕が差し出すと、チャイがまだ入っている自分のグラスにラムを注いだ。そして僕の方を見てニヤリとして、おじさんがグラスに口をつけた。こんな飲み方があったのかと、それまでラッパ飲みしていた僕は驚いた。それからチャイのラム割り(逆?)に切り替えたのは言うまでもない。

 やがてロッジの従業員達が次々と料理を運んで来た。誰が何を注文したかは分からないようで、彼らは料理の名前を叫び、思い当たる白人達が軽く手を挙げ呼応した。これは当時のトレッキング中の夕食時の馴染みの光景で、同じ品を注文していても大抵は同じ物が連続して運ばれてくるので、誰が先といった問題は無かったように思う。

 この夕食に関してトレッカー達の間で、一つの見解の一致があった。ダルバートを頼んだら最後。最後と言うのは致命的な状況に陥るということではなく(ある意味そう言えるかもしれませんが)、文字通り料理が出て来るのが最後という意味。なぜならポーター達が食べるからだった。注文に時間がかかることが多かったが、出てくる料理の順番はトレッカーが注文した品が優先されていた。

 僕の両脇の白人の料理がどうだったかがどうしても思い出せないのだが、僕が注文した品が呼ばれた時、フランス人がすかさず反応して僕を指した。僕の前に料理が置かれ彼を見ると、彼がウィンクした。少し打ち解けたかなと嬉しく感じたが、それ以前に彼のウィンクした時の表情がやたらと格好良く見えた(フランス人旅行者に対する違和感は措くとして、贔屓目に見てもフランスの男は格好いいと思う。翳りのある表情というか細く見える顎の線というか。とりわけ黒髪碧眼のフランス男は本当に格好いいと思いますね)。
 

 
Part 3

 1988年の12月24日。実は当日になるまで気づかなかったのだが、この日はクリスマスイヴということで、僕が泊まっていたタイのチェンライという街にあったポーンハウスというゲストハウスでも、ささやかなパーティーが開かれた。正確には憶えていないのだが、二名のドイツ人と数名のイスラエル人のグループがいたことは確実で、日本人は僕と、あとひとりの大学生の男性だけだったと記憶している。いきおい数少ない日本人同士ということで彼と口を利くようになり、翌日は二人でタイ最北端のメーサイという街と、メコンの辺に拓かれたチェンセンという小さな村に日帰りの予定で行った。そのチェンセンで遺跡などを見ているうちにチェンライに戻るバスに乗り遅れ、仕方なく近くにあったシュリとかいうゲストハウスに泊まることとなった。

 そのゲストハウスでもパーティーが開かれていた。国籍は分からないが数人の白人と、そこにも数人のイスラエル人がいた。そのパーティーの席上で口論と言えば大袈裟だが、連れの日本人の彼と坊主頭のイスラエル人男性とのちょっとしたやり取りがあった。日本人の彼はイスラエルに行ったことがあり、そこで買ったか見たかした野菜の値段を巡るもので、彼の体験談?に対して、「そんな値段で買えるわけないだろ」(意訳というより雰囲気訳です)とイスラエル坊主さんが喰ってかかる様に口泡を飛ばした。この話がどういう風に収束したのかは憶えてないが、坊主さんが立ち去った後、「これだからイスラエル人は」と、日本人の彼がやれやれといった表情をしたのは憶えている。僕が実際に日本人旅行者の口から聞いた、最初のイスラエル人の評判だった。

 マチャプチャレでの滞在を終えチョムロンまで降った僕は、同じ道を引き返すのも芸がないということでタラパニという村に行き一泊し、翌朝村を出た直後の森の中の分岐点で迷っていた時に、後から来たアメリカ人のカップルに出会った。

「私はこっちだと思う」「僕もそう思う」

 突然耳にした日本語に吃驚したが、訊いてみると彼らは日本のある都道府県で英語の教師をしていたとのことだった。そして彼らと歩き続けゴラパニという村のロッジで一緒に泊まり、このトレッキング中での何時も通りの、「夕食時での語り合い」となった。

「イスラエル人はにぎやかですねぇ」

 僕は全く気づかったのだが、あれは食べたこれは食べてないというイスラエルトレッカーの朝のチェックアウト時での、そのアメリカ人の彼にとっては見慣れた光景に関した話を聞き、僕にも思い当たることがあった。それと関係があるか正確には分からないが、その二日前にクルティガルという村に泊まった時のことを思い出した。旅装を解き例の如く宿の前の長椅子でボーッとしていると、ひとりのイスラエル人の男がリュックを背に降って来た。僕の姿を見た男が宿の主人に値段を訊くと、返ってきた答えに少しばかりの悪態をつき、彼はそのまま道を降って行った。正確な額は憶えていないが僕が20ルピーでベッドを確保したのに対し、主人の答えはその倍くらいの値段だったと思う。彼が去った後に思わず主人の顔を見たが、主人が目を合わせようとしなかったのがおぼろげに記憶にある。
 


 日記がなくとも回想録は書けますが、もし日記をつけるのであれば、可能な限り詳しく書いた方が良かったかと悔やまれることがあります。ゴラパニの宿でのアメリカ人との語り合いについて、「彼らの日本人に対する認識はなかなかきびしいようだ」と日記ではなっていますが、詳細が書いてないので日本に住んでいた彼らが日本人をどう捉えていたのかが、どうしても思い出せません。まさか二十年後に読み返すとは、その頃は想像もしなかったのですが。

 あくまで僕の場合で他の旅行者や現地の人達がどう考えていたかは措くが、イスラエル人旅行者は概ね愛想が良く、一緒にいて特に不愉快な思いをしたという記憶はない。彼らの中には日本に行きたがっているのもいるから日本人には友好的という話も聞いたことがあるが、実際のところは分からないし、今となってはどうでもいいですね。

 最近の話だが、2007年から二年連続で東南アジアを旅した時に、何人かのフランス人旅行者と出会った。かっては彼らは英語が不得意だから他の白人と離れているとか、とにかくあいつらは鼻が高いとか色々な風評を耳にしたが、この時出会ったフランス人達は英語も上手くフレンドリーで、楽しい旅の時間を共有することが出来た。時代が変わったからか、元からそうだったのに僕が気づかなかっただけかは分からないが(この線が強いですかね)、これも今となってはどうでもいいことですね。

 この記事の中のイスラエル人とフランス人に関する内容は、僕を含めた当時の一部の旅行者が、冗談交じりに語り合ったこともあったという以上の意味はありません。



案ずるより産むが易しということ インドーパキスタン 1989年 − やっぱり自力で行くべきだった ネパールーインド 1991年

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