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 やっぱり自力で行くべきだった ネパールーインドーイエメン 1991年

 1991年の11月から12月にかけて、カトマンズからデリー、そしてイエメンに行った時の移動の話しです。

Part 1

 あの頃カトマンズやポカラにいた経験のある人なら、街の辻々の旅行社などの店先で、「Overland Trip」とか書かれた看板を目にしたことがある人も少なくないと思う。ネパールからインド各地に向かうバスと鉄道を組み合わせたチケットが売り出されており、行き先はデリーやボンベイを初めとしてヴァラナスィやマドラスに至るまで、インド全域に広がっていたと記憶している。

 別項でも触れたがイエメンのビザ取得と航空券の購入だけが、僕が今回インドに向かう目的だった。アンナプルナでのトレッキングを終えカトマンズに戻り、2210ルピーと聞かされ仰天するものの無事インドのビザを取得した。そしてインドに向かう段取りを考えているうちに、「面倒くさいからこれで行くか」ってな感じで、一軒の店でデリーまでのチケットを購入した。ああ・・・

 この出来事は、当時つけていた日記を元に書いてみます。



『バスを見つけるまで少し苦労したが何とか乗車。日本人もいたがその彼についてきたネパール人の2人はとてもよい人だった』
 いきなり記憶の欠落を思い知らされる。その日本人も、「とてもよい二人のネパール人」も全く覚えがない。

『バスはやっぱり黒人も含めてツーリストだらけ。となりにはイスラエル人がすわったが、まあそんなにやな奴ではなかった』
 直接的な個人体験が全くないにも拘らず、他人からの噂や風評でイスラエル人に対する偏見があったことが認められて、これはちょっと恐ろしいことかも。ところでバスに乗っていた旅行者達はインドに向かうことは間違いないが、全員がジョイントチケットを保持していたかは不明(バスそのものはツーリスト専用のそれではなく、国境に向かうローカルバスのようでした)。

『無事チケットを受けとり無料?の朝食をとっていよいよ出発だ』
 これは翌朝五時半に着いたネパール側の国境での場面。このジョイントチケットには最初の朝食が付いていた。?があるのが不明だが、トーストとチャイだったことと、金を払った覚えがないことは憶えている。チケットとは、国境からデリーまでの乗車する権利が記された証明書のようなものだったと記憶している。

『難なくチェックを終えスタンプをもらい次はバス。それにしてもこの辺のガキどもはうるさい。無理やり荷物をとり屋根に投げつけそれで金を要求するとはどういうつもりだろう』
 品のない書き方ですね。これは国境を越えインド側に入った直後の出来事。要求は当然拒否。

『乗ったバスはまあボロだがすわれたし満足。そのうちとなりにすわったおじさんがやたら愛想よく話しかけてきたが、こいつは絶対ホモだ』
 ちょっと平仮名が多い。隣に座ったおじさんはいい人だったが、日本のセックス事情?についてやたらと訊いてきた。バスの中は隙間風が入り寒く、おじさんが毛布を取り出し肩まで掛け、次いで僕の方にも掛けようとしたが、本能的に危機を感じ必死で拒んだのを憶えている。

『一緒になったドイツ人と旅行会社に行く。無事チケットはとれそうだが、そのあとの・・・これもやっぱりインドか!! 結局面倒なので払う。インド人がそうしてたのを見てたからだ。もっともあとでわかったことだが、額はかなりちがっていたが・・・』
 これはちょっと説明が要る。ゴーラクプール(インド)に着き旅行会社(車掌から指示されたと思う)に行き話しは通じたが、レールウェイマスターだかに手数料を払わなければならないとかで追加料金を要求された。普通に考えればインチキだしドイツ人や一緒に来たインド人(ネパール人?)と共にさんざん揉めたが、不毛なやりとりを続けるうちにこんなチケットを買った自分が馬鹿だったと情けなくなり、忸怩たる思いで払う。「額がちがう」というのはインド人が払った額と違うという意味だが、彼とは行き先が違ってたかもしれず詳細は不明。日記と併行してつけていた小遣い帳には、「ワイロ80R」とある。

『そこで日本人の女の子と会ったので、イギリス人の女の子と4人で駅で昼食をとる』
 まず可愛い子でしたね(インド人は勿論のこと日本人の男でも放っておかないような感じの子でした)。四人のうち一人はドイツ人の男性。

『ひさしぶりに食べるマサーラドーサは何だかみじめな気分になる。あまりにも貧弱だ』
 ピザにステーキ。モモにダルバート(僕は好きです)。かつ丼にナントカ定食。ネパールからインドに入った経験のある旅行者なら、初めの頃の食事でこれらに思いを馳せた人も少なくないのでは。追加料金の件が引き摺っていたこともあったかも。

『日本人の女の子は英語がペラペラ。そしてインド人の悪口をさんざんたたく。まさにインドの旅はセクシャルハラスメントの旅だと』
 読み返しながら意外に思ったのが、「セクシャルハラスメント」という言葉。セクハラという略語は分からないが、既に91年の日本ではセクシャルハラスメントという言葉が使われていたということか(この言葉を彼女の口から聴いた時、まるで違和感を感じませんでした。英語が堪能な彼女だったからということではなく)。

『2時頃チケットが無事手に入る。彼女は追加料金のことでさんざん悪態をついて出ていった。まあ気持ちは同じだが・・・』
 捨て台詞は、「I hate India ! 」 迎え撃つ旅行会社は、「Why ? 」 気持ちは痛いほど分かりました。



 今から思うと、ほとんど何も確認せずにチケットを購入してしまったんだと思う。多分そう聞かされていたとは思うが、僕の頭には「二等寝台車でデリーまで」しかなかった。時間も聞かされてたとは思うが、さっぱり記憶にない。たとえ聞いていたとしても、そこはインドの列車事情ということで斟酌したとは思うが。

 ゴーラクプールの駅ではさんざん待たされた。列車が来たのは23時過ぎだった。スリーパーこそ確保できたが、列車の行き先はデリーではなくラクノーという所だった。翌朝6時にラクノーに着き乗り換え。駅の案内に訊き教えられたホームに来るが、ここでいいんだろうかと不安は消えなかった。やがてゴーラクプールで見かけた白人数人が同じホームに来たので、ほっとした記憶がある。インドという国には大変失礼だが、その頃の僕には色んな意味で白人の方が信用出来た。

『7時頃汽車が来たが予想通り満員。いよいよたたかいが始まった』
 三度目のインドにして初めて乗る、インドの二等自由車だった(厳密に言えばアグラとデリーの間など、ごく短い距離で乗ったことはあります)。



Part 2

「Trip Sout」(Trips Outだったかもしれません)は簡単に見つかった。ここはロンリープラネットに紹介されていた、「信頼できる旅行会社」ということだった。そのためだと思うが、店内に入ると数人のインド人と白人達で一杯だった。白人の姿を見てますます安心が強まったのは偽らざる気持ちだった。僕の番が来て、「イエメン」と言うと、髭を蓄えた代理店の男性は少し驚いた表情をしたが直ぐに調べてくれ、「Aden, Sana'a ?」と言った。ああそうかと思いながらも、「サヌア」と答えたが、この時アデンの発音がエデンであることを初めて知った。

 提示された額は309ドル(片道)と思ったより安く、しかも飛行機はガルフエアーだった。この中東の何処かの国に籍を置くガルフエアーというキャリアは、三年ほど前にカラチからナイロビに飛んだ時に利用したが、機内の清潔さといい長身揃いの金髪碧眼スチュワーデスといい、ゴージャスという言葉が見事に当てはまるような印象だった。また乗れるのかとワクワクした。チケットの値段が確認できたところで、次はイエメンビザの取得となる。代理店の男性が大使館の場所から行き方まで丁寧に教えてくれた。その「旅人のツボを心得た対応」に、さすがはロンプラに書かれているだけのことはあると思った。

 やや紆余曲折があったものの大使館に着き無事申請した。25ドルと少し高いかなとも思ったが、デリーに着いて二日目で、こんなに簡単に事が運んだことに自分でも驚いた。まだ12時を廻ったばかりだった。



 とりあえず立っていたが直ぐに疲れが出てきたので、リュックを横にして上に腰を降ろす。席に座れるなんて大それたことは初めから考えてなかったが、その座り心地はともかく、この方が楽なのには変わりない。乗った直後に柄の入ったシャツを着こなした若い男と目が合ったので、すかさず「デリー?」と訊いてみたが、その男というか少年は曖昧に笑うだけだった。駅の案内でもホームでもさんざん確認したわけだし、もうこれで十分だろう。

 僕が陣取る通路を挟んで進行方向の右側には、三人掛けのベンチのような長椅子が対面に向き合っていたが 、それぞれ五人くらいの大人が座っていて、見た目には十人コンパートメントのような感じだった。左側は明らかに一人掛けだったが二人づつ座っていて、好んで窮屈しているようにも見えた。皆一様にサンダル履きで、白を基調とした長袖のシャツに長ズボンの人もいれば、下がズボンなのか何か巻いているのかが判別しづらい服の人もいた。正確には憶えていないが裸足の人はいなかったように思う。そしてほぼ全員男だった。

 日頃は無闇に話しかけてくる人を煩わしく感じることもあった僕だが、誰もこちらに関心を示そうとはしなかった。なら良いではないかと言うとそこは微妙で、勝手ながら何か間を埋める事というか物があればと思った。この列車がデリーに行くのかが相変わらず気にはなっていた。

 89年のインド旅行に持参した「地球の歩き方」には、この二等自由車に溢れる乗客達に対して、「無名の人々」といった表現がされていた(記憶違いはあるかもしれません)。勿論これは比喩で、庶民という意味以上のものはないのだが、その庶民と会って自分なりに接してきたつもりだったが、この車内の雰囲気は明らかに初めて見るインドの姿のひとつだった。インドは英語で事足りるというインド旅行に関する助言に全く反対しないが、自分の英語力を棚に上げて言わせてもらえば、失礼ながら周りの誰も英語を解するように見えなかった。インド人は話好きという意見にも全く反対しないが、たまたまなのか周りの人達は総じて大人しく控えめな感じがした。

 汽車が動き出してどれくらいの時間が経ってからのことだったが忘れたが、僕の左の一人掛けの席にいた二人のうちの一人が、手にした小さな手帳に何か書き物を始めた。暇を持て余していた僕はさりげなく覗いてみると、パキスタンで見たウルドゥ文字のように見えた。右から左に向かってペンを滑らせているのは明らかだった。

 あくまで僕の乏しい知識での話だが、今この汽車が走っているウッタルプラデッシュ州はヒンディー語人口が多数を占める地域のはず。勿論インドは多言語国家であり人の流れもあるのだから、違う言語や文字を使う人達が行き交っていても全く不思議ではないが、その初老のように見えた男性がペンを走らせる姿は、周りには失礼ながらこの車内では異質に見えた。ひょっとしたらこの人なら。

 問題があっけなく解決した。僕が訊ねると、この列車がデリーまで行くことを綺麗な英語で答えてくれた。助かったと思いながらも、周りの雰囲気に過剰に反応し早々と腹を括っていた自分の馬鹿さ加減を恥じた。次いで僕は(周りの人達とは)言葉が通じないようだったので、誰に訊けばいいか分からなかったと正直に言うと、「彼らは貧しいから英語を話せない」といった風なことを、周りを見渡しながら彼が言った。「poor」という語が響いたので一瞬どきっとしたが、周りは僕達のやり取りを唖然とした感じで見ているだけだった。これが普通のインドと言ったら語弊があるが、知識としては知っていたが、僕があまり意識していなかった、「英語が通じないインド」だった。

 ここで彼を挟んで僕と周りの人達とのコミュニケーションといった場面に行きたいのだが、全くそんな展開にならなかった。その初老の男性は相席?していた隣の人も含めて周りの誰とも会話をするようなことはなく、再び静かな車内に戻った。

 ここから先は僕の乏しい知識ではいよいよ厳しくなり、カーストなども含めて想像の範囲ならいくらでも言えるのだが、まあやめときます。今から思うと彼もまた、「周りと言葉が通じない人」のひとりだったかもしれないと書くのが精一杯ということで。この車内の状況は、たまたまそうだったと言われれば全くその通りなんですが。再び日記です。

『そんなこんなでたえにたえぬいた10時間。食べたのはスナックとチャパティだけ。ようやく暗くなってオールドデリーに着いた。とにかく着いた』
 はなっからニューデリーに着くものばかりだと思っていた。最後までアホでしたね。

 構内を歩いていると、あの白人達が同じ方向に向かって歩いているのが目に付いた。各自馬鹿でかい荷物を背負って歩くその憔悴しきった表情を見て、自分の事を棚に上げて笑いが込み上げてきた。



Part 3

 11月から12月にかけてという時期が関係があったのかは分からないが、ビザはあっさり取れたもののチケットの予約で少し手間取った。これは混雑していたというより、飛行機を二回乗り換えるということが影響していたんだと思う。代理店から教えられたチケットの内容は、デリー/マスカット/アブダビそしてサヌアというものだった。このうちアブダビまではガルフエアーだったがそれぞれ便名が違っていた。因みにアブダビからは、「Yemenia」というイエメンのナショナルキャリアだった。
 
 出発は深夜というより明け方近くだったと思う。前日の夜にニューデリー駅近くにあった宿からコンノートプレイスまで歩き、空港に向かう23:30の最終バスに乗ったと日記ではなっている。しかし搭乗まで早かったためか空港の中には入れてもらえなかった。何を話したか全く憶えていないが、同じように入り口の前で待機していた香港からのグループがいて、うちのひとりの男性と会話したことは記憶にある。

 日付が変わった二時半過ぎに空港内に入ることが許された。ようやくチェックインの列に加わったが、このカウンターにいた男性の仕事ぶりにいらついたことが、この時のインド滞在の最後の思い出になった。

 既に客を迎えているにも拘らず、あれはどうしたこれはどうしたといった感じで、椅子に座ったまま焦った顔で身体を左右に捻らせ、何かを探しているように見えた。「コネ関係で人を採ってるからこういうことになるんだ(詳しい事情は知りませんが)」と思いながら見ていたが、彼の仕事に対する準備不足は明らかだった。「お客様を迎える前に全ての態勢を整えるのが私共の常識」と言いたくもなるが、ここはよそ様の国。しかしよそ様の国の事であっても、それが自分に関係してくる事となると話は別になる。

 飛行機を二回乗り換えるということも不安だったが、それ以上に心配だったのが、預けた荷物が適切に搬入搬出されるかという、「リュックの乗り換え」だった。詳しい説明はしないが(荷物を預けたまま)飛行機を二回乗り換えるということは、クレームタグには最終目的地を含めた三つの都市コード(もしくは空港コード。通常はアルファベット三文字)が書かれる筈である。僕の番が来てパスポートを差し出し、既に疑念があった彼の作業を注意深く見ていたが、彼がクレームタグに手書きで記入したのは二つの都市コードだけだった。

「ちょっと待って。僕はサヌアに行くんだよ」と言うと、彼は何かファイルのようなものと照らし合わせ、「うん。この荷物はアブダビまでだ」と言った。ここにきて遂に緒が切れた僕は、「アブダビに入国出来るわけないだろ。いいからサヌアって書け」と怒鳴りつけると、その剣幕に押されたのか彼は慌ててサヌアの都市コードを書き加えた※。 以下再び日記です。

『イミグレもカスタムもすべて感じが悪かった』
 詳細は不明だが、各所にいた係官の横柄な態度に腹を立てたことがおぼろげに記憶にある。

『ほぼ時間通りにボーディング。やっぱり客はすべてインド人だった。それにしてもガルフエアーは相変わらずすばらしい。スチュワーデスも美女ぞろいだ』
「セクシャルハラスメント」はともかく91年の日本では、「フライトアテンダント」という言葉は一般的ではなかったか。さよならインド。

『8時半頃マスカット着。ここでほとんど降りる(中略)それにしてもここにもインド人がたくさん働いている』
 厳密に言えばインド人ではなかったかもしれないが、揃いのユニフォームを着て動き回っていた人達が僕にはそう見えた。因みにトランシーバーを片手に旅客の誘導などを担当していた男性は、明らかに中国人だった(中国国籍かは不明)。

『同じ飛行機でデリーから来たシーク教徒と話をする。彼はスーダンへ行くそうだ。スーダンをPoor Countryと言っていたのがおかしかったが、考えてみればあれほど物があふれているインドは別に貧しくともなんともないのかもしれない』
 マスカットではなく、アブダビのトランジットルームというより免税店というより高級デパートでのこと。この人は日本の企業でも働いたことがあったそうだが、一番驚いたのは僕と同じ二十八歳だったこと(ターバンと髭と貫禄のためか、スィクの男性は老けて見えました)。スーダンに対してではなく、インド人の口から出た、「貧しい国」という語が笑えたというのが偽らざる気持ち。

『僕の一つおいてとなりは何とフィリピン人だ。そういえばアブダビの免税店の店員はほぼ全員フィリピン女性だったし、マスカットでもかなり目についた』
 イエメンに向かう機内で話した彼はフィリピン人だったが、アブダビとマスカットの免税店で働いていた女性達が実際にフィリピン人だったかは不明。こうやって読み返すと、僕がつけていた日記というのは心証を綴ったものであることがよく分かりますね。

『無事スタンプももらい次は荷物うけとり。一番心配したことだがちゃんと破損もせず届いていた』
 デリーの空港での主張が功を奏したのか、リュック共々無事イエメンに着きました。



※ 敢えて当時の言動を日記を参照しながら率直に書きました。その言い方はともかく結果として荷物はサヌアに届いたので、主張の内容そのものは正しかったと思います。
 ただチェックインカウンターにいた男性の対応について、(実際にいたかはともかく)アブダビに入国し数時間過ごした後に再び第三国に向かう旅客と混同した可能性は考えられます。その場合は一旦荷物を受け取ることも考えられ、こう考えると彼の対応もあながち間違ってはいなかったということにもなります(但し短時間の入国の場合は、身体は入国するものの荷物は空港に残したままなど、国によっても空港によっても扱いに差があるようで詳しいことは分かりません)。
 アブダビまでがガルフエアーでその先がイエメニアだったことも、その混同に拍車をかけたかもしれません。勿論日付や時刻が記されたこちらの航空券の詳細や、パスポートのUAEの査証の有無などを見れば、適切な知識を持った職員なら適切に処理できたと思うのですが。

 発展ぶりがしばしば報道される現在のインドは全く知りませんが、「これがあの頃のインド」と早合点されてもアレなので付加しました。



イスラエル人とフランス人 ネパール/アンナプルナ 1991年 − 最後の砦 北京飯店 タイ/バンコク 1986年より多数

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