やっぱり勝負はついていた 龙脊梯田/longjititian 2005年

 春如层层银帯 夏滚道道绿波 秋叠座座金塔 冬舞条条银龙

 前回書いた入場料と引き換えに貰ったパンフレットには、この棚田の四季を謳った詩文が、それぞれ四枚の写真の脇に書かれてあった。正確に読むことは出来ないが、写真が無くとも字を見てるだけで意味を汲み取ることが出来る。同じ漢字文化圏を意識するひと時で、おそらく日本人にしか味わえない中国旅行の面白みのひとつだと思う。

 しかし僕が訪れた時は、上の四つの何れにも当てはまらなかった。金の塔は刈り取られ、銀の竜?は舞う気配さえなかった。僕は今回の旅行に備えて、万全とはいえないまでも出来る限りの情報を集めたつもりだったが、こればかりは完全に想定外だった。トレッキングばかりに気を取られ、肝心の棚田の中身にまでは意識が及ばなかったのだ。十月中旬は遅かったのだ。一年のうちで一番つまらない時期に来たと言えるかもしれなかった。

 そうはいっても初めて見る分には、棚田の眺めはそれはもう雄大だった。この時期と関係があるのかは分からないが、思ったほど人で混んでなかったのも良かったと思う。帰国してから現像したポジには茶色の段々が目立ったが、見方を変えればこの時期にしか撮れないわけだし。でもやっぱり悔しいですね。


Dazhai/China 2005



 先ほどの四人のうち二人が僕の担当と決まったようだ。二人は僕の前を歩きながらも、背中に意識を集中しているのが後ろから読み取れて、笑いを堪えながら僕は歩いた。いつ切り出してくるのだろうか。やがて見晴らしのいい所に出ると、すかさず一人が「ビュティフービュティフー」と言った。次いで「フォトフォト」 仕掛けが始まったようだ。しかしそこは実際に景色が良かったので、僕も三脚を立て少し休憩することにした。

 ところでこの何ていうか流しの観光ガイドというのは、ここに限らず世界中にいるといっていい。どちらかといえば途上国に多いような気がするが、本業の傍らに副業としてやっている人が多いと思う。この瑶族/yaozuの女性達でいえば元々は農業従事者で、その合間をぬってガイド稼業に勤しんでいるといってよかった。しかし副業とはいえ、その稼ぎは無視できないものではないかと想像できる。つい気軽なアルバイトと考えがちで、僕も長くそのように捉えてきたが、ひょっとしたら自分が考える以上に厳しい生活が懸かっているのではと最近になって思うようになった。もちろん詳しく調べたわけではないが。

 写真を撮りながら、いつまでも無視するわけにもいかないなと思った。雇うなら雇うで料金ははっきりさせた方がいいし。まさか既に料金が発生しているのではと急に思い立ったが、流石にそれはないだろう。もう少し様子を見てみるか。ちょっとコミュニケーションということで、眺めに向かって指しながら、「たんぼ、そら、くも」と、僕は日本語で言ってみた。若い方の女性がぱっと顔を明るくして、「你们的话」と言った。変わった言い方だなと思ったが、何ていうかノスタルジックな感じが僕は気に入った。正式な普通語ではこういう言い方をするのかは分からなかったが、日本語と訊くのではなく、「あなたたちの言葉」といった響きが、逆に新鮮なものに感じられた。もっともこの時点で、彼女達が僕が日本人もしくは外国人であることを理解していたかは分からないが。


Zhonglu/China 2005

 昼頃になって中绿/zhongluという村に着いた。彼女達に促され一軒の民家に入り、そこで昼食となった。どうやらここは彼女達の村で、この家は二人のうちのどちらかの家なのだろう。父親なのかは分からなかったが、家には旦那と思しき初老の男性が一人いて、笑顔で迎えてくれた。今日も娘が客を連れてきたといった感じだろうか。この時点ではガイド料の話はしていなかったが、どちらにしても食事を取るとなると、これははっきりさせた方がいいと思った。ところが何度訊いても要領を得ない。僕の話す中国語が不完全なのは認めるが、惚けているのか何も答えが返ってこなかった。少し嫌な感じがしたが、交渉するのが面倒くさくなってきた。大した結末にはならないことを願いつつ。

 窓から射し込む自然光を頼りに、彼女達が炊事を始めた。電気が来ていたかは覚えてないが、燃料は薪だった。囲炉裏の上には燻製のようなものがぶら下がっており、旦那さんがそれを指して「食べるか」という仕草をしたので僕が頷くと、手を伸ばしてその黒い塊をいくつか取り外した。見ると干した肉のようだった。既に炎が上がっている囲炉裏に黒い大きな鉄鍋が置かれた。油を垂らし青物を投入。弾ける音と共に、年嵩の女性が黒い玉杓子で掻き混ぜ始めた。そして塩。味付けは塩だけのようだが、もちろん僕は多くを期待していない。瑶族の人が作る料理に対する興味の方が大きかった。


Zhonglu/China 2005

 囲炉裏から少し離れた処にあった綻びだらけのソファの前に小さめの円卓が置かれ、出来上がった料理が運ばれてきた。どれでもお好きなものをといった感じで、ビールとコーラと水も用意された。この先歩かなければならないのだが、こうやって目の前に置かれると弱い。当然ビールに手が伸びた。皿は五皿くらいだったろうか。それぞれ具材は違ったが、味付けは同じだった。味といえば覚えているのは、ほうれん草のような青菜のアクが強かったということだけだ。正直あまり美味しいとは思わなかったが、これも自然の味なのかなと納得したのを憶えている。

 てっきり一緒に食べるのかと思ったが、旦那さんは囲炉裏に戻り、彼女達も少し離れた処に行った。別々に食べるのかなと思ったが、彼女達は何をするでもなく無言で床の上に座っていた。静かになった部屋の中で自分の食べる音ばかりが鳴り、何となく居心地が悪い。一人旅ゆえ一人で食べることには慣れていたが、こういう状況はちょっときつかった。

 見た感じ彼女達の分の料理はなさそうだった。さっき作った料理は全てここに運ばれたようだった。僕が食べ終えるのを待っているのだろうか。そのつもりはなかったが、もし全部食べてしまったらなどと考えてしまった。とにかくこの閉塞は頂けないので、ある程度腹を満たした後、僕が「一緒に食べようよ」と声をかけると、自分の箸と茶碗を持って彼女達があっさりやって来た。やっぱりそうだったのかと思いながらも少し驚いたが、さらに気配を察したのか旦那さんまで来て、これは驚きどころか笑ってしまった。

「フォティ」 食事が終わって少しの休憩の後、旦那さんが笑顔で言った。初め意味が分からなかったが、食事の値段だった。40元ですか。その値段なら、あの平安/Pinganの宿の美人の女将さんならどれだけのものを食べさせてくれただろうと一瞬考えてしまったが、比較すること自体が間違いなのは言うまでもないことで、僕は礼を言って支払った。それ以前に値段交渉を投げてたわけだし。

 この「フォテイ」の一言で、あらためて二つのことが確認できた。一つは外国人が此処に来て食事を取ることがあるということ。そして僕がその外国人のひとりだということが、やっぱりばれてたわけだ。向こうの方が上手だったか。副業とはいえ一年を通して観光客と接している彼ら。そこそこ旅歴があるとはいえ、一年のほとんどを旅以外で過ごしている旅行者。すでに勝負はついてたわけですね。


Zhonglu/China 2005



壮と瑶の緩衝地帯で 龙脊梯田/longjititian 2005年 - 肩の荷が下りた棚田歩遊 龙脊梯田/longjititian 2005年

中国遊記 2005年

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